- 書状でたどる戦国時代 -

幻に終わった「坂戸城の戦い」

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の14ページ目です。 ついに総攻撃を命じた長尾景虎(後の上杉謙信)。しかし長尾政景は戦う前に降伏し、景虎は寛容な条件で許しました。


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総攻撃の通達

天文20年(1551年)7月23日、長尾景虎は平子房長に以下の書状を送りました。

上田衆は去年の春以来、和睦をしたいと望み続けてきた。こちらも内々に、和睦に応じる覚悟があった。

しかし先方は、細かい条件に難癖をつけて、落着を引き延ばし続けてきた。連中が何やら企んでいることは明白だ。

こうなっては、素早く出陣して決着をつけるしかない。

よって、8月1日に総攻撃を行うことにした。平子家にも多大なご負担をおかけするが、そちらの方面から上田荘に進軍していただきたい。詳しい戦略は三奉行からお伝えする。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

とうとう、上田長尾家との決戦を行うことになったのです。 小千谷の平子家は、こういう時のために手懐けてきた勢力。平子家と、宇賀地に駐屯させていた部隊に北から上田荘を攻めさせ、景虎の主力は波多岐など西から攻める予定だったと思われます。 長尾政景が本拠地の坂戸城に籠城すれば、そこで攻城戦が行われることになります。 いわゆる「坂戸城の戦い」です。 しかし実際には、長尾景虎と政景の間で決戦が行われた形跡も、坂戸城で攻城戦が行われたことを示す一次史料も確認されていません。 景虎が総攻撃の命令を出した後、長尾政景は戦いもせずに降伏したと見られているのです。その場合、「坂戸城の戦い」は幻だったということになります。


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景虎はなぜ政景を許した?

降伏した長尾政景に対し、景虎はどんな処分をしたのでしょうか? 実は、この翌年に宇佐美定満が書いた書状から見る限り、政景は「宇賀地の占領地を返還する」「人質を出す」と約束はしているものの、少なくとも1年はそれを実行していません。 ということは、景虎は総攻撃の命令まで下しておきながら、降伏した政景に何の処分もせず、信用もできない口約束だけで矛を収めたということになります。 景虎はなぜ、政景に対してそこまで寛容だったのでしょうか? よく言われるのが、景虎は油断のならない政景を処断するつもりだったものの、姉が正室になっていたことと、家臣たちが助命嘆願をしたために許した、という話です。 景虎の姉、仙桃院(綾?)と長尾政景との婚約が成立した時期は、長尾晴景(または為景)と長尾房長が和睦した天文6年(1537年)という説と、この天文20年(1551年)という説があります。前者の場合は、「姉が正室だったから許した」という可能性はあります。 「家臣たちの助命嘆願」については、本庄実乃など栖吉長尾家系の家臣がそのような嘆願をするはずがないので、あり得るとすれば大熊朝秀や直江景綱など越後上杉家の旧臣たちですが、彼らが政景を許したいと考える動機もよく分かりません。 他の説としては、景虎は一連の戦いで善戦した上田衆の精強さを痛感し、今後の遠征に活用したかったからだ、というものがあります。 景虎に将軍に加勢する使命が課せられていたことを考えると、こちらの理由の方が納得できます。 天文20年(1551年)の7月は、足利義輝の軍勢が京に侵攻し、三好長慶の家臣、松永久秀・長頼兄弟に撃退された「相国寺の戦い」が起きるなど、将軍と三好家の対立がピークに達していた時期です。 このときの景虎は、少しでも早く将軍の支援に駆けつけたい気持ちでいっぱいだったはず。上田長尾家を滅ぼして戦後処理に煩わされるよりも、その戦力を温存し、遠征に連れていく方がいいと考えたのかもしれません。