- 書状でたどる戦国時代 -

武装上洛計画の頓挫

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の15ページ目です。 六角定頼の死をきっかけに、長尾景虎(後の上杉謙信)の上洛計画はいったん頓挫します。景虎はそれでも、積極的な外交活動を続けました。


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揚北衆の抗争

しかし、景虎は政景を連れて上洛することはできませんでした。 長尾政景は二度目の「降伏」の後も、色々と理由をつけて人質の提出や所領の返還を引き延ばし、臣従する姿勢を示そうとはしていなかったからです。 越後北部の阿賀北では、他にも波乱が起きていました。 揚北衆の一人で、景虎の家督相続前からの支持者だった小川長資が、甥の本庄千代猪丸(本庄繁長)によって自害させられたのです。 小川長資は「天文の乱」が起きる直前、中条景資や伊達稙宗に攻撃された兄の本庄房長から城を奪い、本庄家の実権を奪っていました。千代猪丸は、父の仇を討ったということになります。 その直後、元服して本庄繁長と名乗った千代猪丸は、小川長資と共謀して本庄房長を追い出した大葉沢城主、鮎川清長をも討とうとします。 天文20年(1551年)11月、色部勝長が仲裁に入ったことで本庄繁長は矛を収めましたが、小川長資と親しかった景虎に対しても、いい感情を抱いていないのは明白でした。 阿賀北では、中条房資と黒川四郎次郎(黒川清実の息子。黒川実氏?黒川平実?)との抗争も激しくなっていました。中条房資は、景虎の強い支持者だった中条景資の息子です。 景虎は、恩義がある中条家を救う形での和睦を目指していましたが、この内紛についても色部勝長に仲介を依頼し、自らが直接関わったり、黒川家に軍事的な圧力をかけることは避けていました。 下手に介入して、泥沼の戦いに引きずり込まれるのは避けたかったようです。後の「本庄繁長の乱」や「新発田重家の乱」で上杉謙信や上杉景勝が苦戦したように、揚北衆は越後でも特に精強なので、この判断は正しかったといえるでしょう。


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六角定頼の死

長尾景虎の視線は、相変わらず京へと向いていました。 天文20年(1551年)の年末から翌年にかけて、外交活動を担当してきた神余実綱に多額の献金を持たせて上洛させたのです。 神余実綱は、途中で朝倉家と六角家にも贈り物を渡し、景虎が上洛する際の支援を求めます。 12月18日、将軍・足利義輝の最大の後援者だった六角定頼が書いた返信です。

神余入道から太刀と鷹を受け取りました。

遠方にも関わらず懇意にしていただき、嬉しい限りです。大切にさせていただきます。

お礼として、こちらからも太刀と紅毛氈鞍覆を贈ります。詳しくは進藤賢盛から取り次ぎをさせます。

上越市史 上杉氏文書集「六角定頼書状」より意訳

六角定頼から景虎に贈った「紅毛氈鞍覆」は、景虎が将軍から使用免許を得たばかりのステータスです。定頼は足利義輝の代わりに、「特権を与えられた時の約束通り、来年こそは上洛して一緒に戦うんだぞ」というメッセージを込めたのかもしれません。 しかし、それから1ヶ月後の天文21年(1552年)1月、事態は一変します。 六角定頼が死去し、その跡を継いだ六角義賢は、将軍の敵・三好長慶と和睦してしまったのです。 「反三好連合軍」は、主力の六角家が離脱したことで瓦解。足利義輝はやむをえず、六角義賢の仲介により三好長慶と和睦しました。


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朝廷工作と叙爵

こうして「将軍のために上洛して戦う」という目的を失ってしまった景虎ですが、それでも神余実綱に外交活動を続けさせました。 足利義輝や六角定頼と共に三好長慶と戦っていた管領・細川晴元は、将軍が長慶と和睦したことで孤立し、若狭に逃れていました。神余実綱は当初の予定通り、その細川晴元も訪問して贈り物を渡しています。 さらに、これまで将軍との間を取り持ってくれた大覚寺の門跡・義俊に対し、今度は朝廷との間をつなぎ、景虎の官位獲得に協力してもらえないかと働きかけました。 長尾家では為景や晴景の代から、朝廷にもたびたび献金し、後奈良天皇の綸旨を得ていました。為景は、従五位下の信濃守に叙爵されています。 こうした先例があったこともあり、景虎も従五位下・弾正小弼に叙爵されることになりました。従五位下からは貴族とされているので、景虎は朝廷からも、名門の当主として認められたということになります。 景虎が正式に弾正小弼を名乗り始めるのは、神余実綱が将軍の御内書などを持ち帰った天文21年(1552年)6月28日です。