- 書状でたどる戦国時代 -

関東管領からの救援要請

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の16ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)の武装上洛計画が頓挫した直後、関東管領・上杉憲政が越後に逃れてきます。上杉憲政が求める関東遠征を実現するためには、長尾政景の態度をはっきりさせる必要がありました。


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関東管領の亡命

この天文21年(1552年)の3月、関東地方でも大きな変化が起きていました。 関東管領・山内上杉憲政の本拠地・平井城が北条家の攻撃を受け落城したのです。 上杉憲政は、当初は足利長尾家や横瀬氏のもとへ逃れようとしたようですが、北条家に阻まれて果たせず、唯一の退路となった北の越後に逃れてきました。 関東管領の越後入りには永正6年(1509年)に前例がありましたが、それは上杉顕定を長尾為景を討伐するために攻めてきた「永正の乱」の時のこと。当時23~24歳だった為景は顕定を返り討ちにし、敗死させていました。 それから43年後、顕定の又従兄弟の息子である上杉憲政は、顕定とは真逆の立場で越後に入ってきました。追い詰められた状況では、過去の怨恨など気にしている場合ではなかったのでしょう。


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長尾政景への協力要請

上杉憲政の目的は、ただ越後に亡命することだけではありません。 北条家の上野国支配は始まったばかりで、まだ安定していませんでした。そこで憲政は、少しでも早く上野に出兵し、北条家を追い払うよう景虎に要請したのです。 景虎には、上杉家のために関東地方で戦った長尾家の先祖たちへの強い憧れがありました。将軍と三好長慶が和睦したことで、上洛する必要性も薄れています。 越後の国主と認められるためにも、ぜひ応じたいところです。 しかしひとつ、大きな問題がありました。臣従するのかしないのか、いつまでも態度がはっきりしない長尾政景の存在です。関東に出兵するためには、その政景の所領・魚沼郡を通る必要があります。 上田長尾家の所領はもともと関東管領の荘園であり、形式上、上田長尾家は山内上杉家に従う立場でした。そこで景虎は、関東出兵を行う条件として、政景を何とかしてほしいと憲政に依頼しました。 5月24日、上杉憲政(上杉成悦)から長尾政景に送られた書状です。

やあ久しぶりだな。最近、同名平三(長尾景虎)が上州情勢のリサーチをさせていた僧侶が帰ってきたよ。どうやら今が攻め時のようだから、少しでも早く出陣したいと思う。

君ももちろん、景虎に従軍するんだよな。遠征の準備をしっかり進めてくれたまえ。

こっちの準備状況は景虎から伝えるから、その指示に従うこと。山越えの軍道の整備とかも申し付けられるだろうけど、ちゃんと取り組まなきゃだめだぞ。

上越市史 上杉氏文書集「上杉成悦書状書状」より意訳


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臣従か、抵抗か

この書状は、ただの遠征への協力要請ではなく、「府内長尾家に完全に臣従せよ」というメッセージを含んでいます。 名目上の主君である関東管領から、こうした指令を受け取った政景は、何を考えたでしょうか? 上田長尾家は、府内長尾家と戦ったり和睦したりを繰り返してきましたが、和睦後も一定の独立性を保っており、このように家臣のような扱いを受けたことはありませんでした。しかも遠征となれば、関東に最も近い上田長尾家が先陣にさせられ、軍道の整備も含めて多大な負担をかけさせられることが目に見えています。 それによって遠征が成功しても、景虎の権威を高める結果をもたらすだけ。山内上杉家から上野の土地を奪うわけにはいかないので、所領が増えることも期待できません。 しかしかといって、遠征への協力をはっきりと拒絶すれば、景虎は再び総攻撃をしかけてくるかもしれません。この頃には景虎の授爵の情報も入っていたはずで、幕府に続いて朝廷からも強い支持を受けた景虎に正面から立ち向かうことは得策ではありません。 そこで政景は、遠征に協力する意志はあることをにおわせつつ、今すぐには動けない理由を挙げ、あいまいな返事をしていました。 こうした政景の態度に、強い不信感と危機感を抱いていた武将がいました。 宇賀地の戦いで、政景の主要ターゲットになっていた宇佐美定満です。