- 書状でたどる戦国時代 -

勝者となった上田長尾家

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の20ページ目です。 関東遠征計画が進められる中、「長尾政景の乱」はうやむやのまま終息していきました。しかし、この乱を「長尾政景と宇佐美定満の戦い」と捉えると、長期的には長尾政景(上田長尾家)の圧勝で決着していたことが分かります。


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宇賀地のその後

ところで、宇駿要害の放火事件があった宇賀地は、その後どうなったのでしょうか? 放火事件そのものについては、実行犯が処断されることで解決となったようです。つまり、宇佐美定満が黒幕だと主張していた上田長尾家は不問となりました。 関東出兵には上田長尾家の協力が欠かせないので、追い詰めるのは得策ではないと判断したのでしょう。 とはいえ、長尾政景もこれ以上の問題を起こして、関東出兵後に討伐されるのは避けたかったようです。宇賀地の占領地はまもなく返還されました。 一部は宇佐美定満と多功家が、残りは平子家が受け取ったようです。すると今度は、返還された土地をめぐり、宇佐美定満と平子房長の間で係争が始まります。 10月10日、宇佐美定満が平子房長に送った書状です。

おっしゃる通り、しばらくご無沙汰にしていました。こちらからも、色々とお尋ねしたいことがたくさんありました。

多功小三郎の遺族の土地である堀之内をお取り上げになるとの仰せですが、夏からずっとお伝えしているように、ここは多功家の本領であり、知行を認められてきた土地です。

さらに多功小三郎は、今回お味方に復帰し、最前線で戦って戦死しています。

本当は押生と田河も多功家の本領なのですが、たびたびお願いしたにも関わらずお取り上げになってしまったので、是非なく諦めるつもりでおりました。

この上さらに、堀之内まで取り上げられてしまったら、こちらは大変困窮してしまいます。この土地については、何度でもご嘆願を申し上げる所存です。

すでにお取り上げになった田河については、われわれも気をつけていたものの、横領されておりますので、早めに対処されるべきと存じます。

上越市史 上杉氏文書集「宇佐美定満書状」より意訳

宇佐美定満や多功家の弱い立場や、困り果てた様子がうかがえる書状です。 「田河」を横領したのが誰だかは分かりませんが、考えられるのは上田衆の武将です。その場合、上田長尾家が宇賀地の占領地を返還した後も、上田衆の被官がその一部を再び横領したということになります。そんなことが許されるほど、長尾政景の影響力はまだまだ健在だったのです。 一方、宇佐美定満(および多功家遺族)と平子房長の宇賀地をめぐる係争については、景虎が早い段階で平子房長に安堵状を出していたこともあり、平子家に有利な裁定が下されました。 長尾景虎と、景虎政権の三奉行(本庄実乃・大熊朝秀・直江実綱)は、宇佐美定満に対し、多功家の所領を(屋敷も含めて)平子家に引き渡すよう命じました。 12月12日、宇佐美定満が三奉行に送った返信です。

多功家の屋敷を平子殿に引き渡せとの度々のご命令を受け取りました。

殿が直筆の書状で命じられたとなっては、もはや異議を唱えることもできません。多功家には、土地を引き渡すよう伝えておきました。

夏以来、多功家の遺族の処遇を考えてくださるようお願いし続けてきましたが、皆さんが本心でご協力していただかなかったので、とうとう殿のご理解を得ることはできませんでした。大変残念です。

庄田殿を通してご配慮をお願いし、本庄殿と大熊殿から事実確認を求められた際、わたしは多功が先年の戦乱でわたしと一緒に同心(上田勢から離反)し、お味方として戦った上で戦死した経緯を何度もご説明申し上げました。

今からでも、殿のご判断を変えていただくよう、どうか真摯なお取りなしをお願いできませんでしょうか?

何卒よろしくお願い申し上げます。

上越市史 上杉氏文書集「宇佐美定満書状」より意訳


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宇佐美家と多功家のその後

宇佐美定満の度重なる訴えに対し、景虎政権がどのような判断を下したのかは分かっていません。 宇佐美定満の消息を伝える一次史料はこの時期が最後となっており、まもなく隠居、または死亡したと考えられます。関東で戦死したという説もあります。 「永禄7年(1564年)、上杉謙信に謀反を企む長尾政景を先手を打って謀殺するため、宇佐美定行が政景を野尻池(または野尻湖)の舟遊びに誘い、その舟を自沈させて心中した」という北越軍記などの伝承は、「宇賀地の戦い」や「宇駿要害の炎上」など、宇佐美定満と長尾政景の史実の因縁をもとに作られたのかもしれません。 「野尻池事件」の真偽はともあれ、宇佐美定満が上杉謙信に重用されたとか、謙信への忠誠心を持っていた可能性は、一次史料で確認できる限りは低そうです。 宇佐美定満の後継者は、宇佐美平八郎(実定?/民部少輔?)という武将だと考えられています。「宇佐美平八郎」の名前は永禄10年(1567年)8月、武田信玄に備えるため、平子若狭守と一緒に信越国境の関山城に派遣されたことが記録で確認できます。 宇佐美家と多功家は、所領をいったん平子家に引き渡し、平子家の被官になることを条件に辛うじて存続したのかもしれません。 「御館の乱」では、俎板平城主の「多功某」が上杉景勝陣営を離反して上杉景虎陣営につき、まもなく滅ぼされたと記録されています。これにより、宇佐美家と「多功肥後守」の家系は滅亡、または帰農したようです。 引き続き景勝陣営に属し、会津や米沢まで従った「多功豊後守」は、「多功肥後守」の遠い親戚だと見られます。 江戸時代に入ると、紀州藩主の命により、藩士で軍学者の大関佐助が宇佐美定祐と名乗り、「紀州宇佐美家」を立てています。 大関佐助が本当に宇佐美定満の子孫なのか、血縁関係が全くないのかは不明です。「紀州宇佐美家」出身の人物として、紀州伊達家の養子に入った伊達千広(宗広)がいます。明治時代に外交官として活躍した陸奥宗光は、その伊達千広の息子です。


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上田長尾家のその後

長尾政景は、その後もしばらくは半独立勢力としての立場を保ちますが、4年後の「景虎出奔事件」をきっかけに景虎に臣従します。 そして永禄7年(1564年)7月5日、長尾政景は野尻池で溺死しました。 上でもふれた宇佐美定満による謀殺説の他、下平吉長による暗殺説、それ以外の手段を使った上杉謙信による謀殺説などがありますが、原因は今も分かっていません。単に酒に酔っての事故だった可能性も高そうです。 長尾政景の息子・顕景は上杉謙信の養子となり、上杉景勝と名乗りました。そして天正6年(1578年)3月13日の「御館の乱」で家督を争った上杉景虎に勝利。上杉景虎に味方した栖吉長尾家も滅ぼし、この両家の抗争は上田長尾家の勝利で幕を下ろしました。