- 書状でたどる戦国時代 -

正史に記録されなかった「謎の関東出兵」

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の21ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)による初めての「越山(関東出兵)」は、天文21年(1552年)に行われていました。上杉家の「正史」に記録されていないこの遠征では、どのような戦いが繰り広げられたのでしょうか?


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一次史料が伝える「初めての関東出兵」

ところで、上杉憲政と長尾景虎の関東遠征は、結局どうなったのでしょうか? 米沢藩で伝えられた「上杉家文書」や「上杉家御年譜」にはこの遠征についての記録はありません。 しかし、遠征が行われたことを示す一次史料はいくつか残っています。 景虎政権が平子家に送った書状からは、7月~8月の出陣に向けて具体的に動いていたことが分かります。長尾政景の抵抗など、予想外の事態が発生していない限り、その時期に最初の「越山」を行ったと考えてよさそうです。 また、天文21年(1552年)7月の長尾景虎名義の制札もあります。「武州・北河辺矢嶋での越後勢による乱暴狼藉を停止する」という禁制です。 武蔵国の北河辺(埼玉県加須市)は、古河公方・足利晴氏の本拠地、古河城のすぐ近くです。景虎の出陣は早くても7月10日なので、7月中に上野の北条勢を駆逐し、古河城付近まで達していたとしたら驚異的なスピードですが、実際に制札が掲げられたのはおそらく8月以降でしょう。 「佐野軍記」などでは、越後勢が乱暴な行動を取っていたことが記録されています。「長尾景虎の軍勢は北条勢よりもたちが悪い」という評判が広まったため、こういった禁制が必要になったとも考えられます。 実際の景虎の動きははっきりしませんが、北条家の動きが消極的で、決戦になる気配が見られなかったことから、(仮に自ら出陣していたとしても)10月ごろには越後に戻っていたと思われます。 10月22日に、長尾景虎から「遠征軍軍監」の庄田定賢に宛てて以下の書状が送られているためです。

このたびの関東への合力、ご苦労である。素早く出陣してくれたな。遠路なので多くの陣労があることと案じておる。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

庄田定賢は、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死するまでの重要な合戦の多くで、景虎の代わりに戦闘の指揮をとった人物です。本庄実乃と並び、初期の長尾景虎(上杉政虎)にとって最も信頼できる武将だったのでしょう。


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「関八州古戦録」が伝える天文21年の関東遠征

江戸時代の軍記物「関八州古戦録」では、以下のような流れだったと伝えられています。

天文21年(1552年) 3月 信州に遠征し武田信玄と一戦 4月 関東に出陣し、西上野の松井田経由で平井城へ進軍 平井城では疫病が流行っていたこともあり、北条長綱(幻庵)は戦わずに城を捨て、武蔵の松山城へ退却 このとき北条氏康は里見義堯を攻めようとしており、それを途中で切り上げて景虎に備えようとしたが、平井城の救援には間に合わなかったため、松山城に留まって守りを固めた。 上野や下野の武将たちが上杉家の下に参陣したため、6月、景虎は平井城に3千あまりの兵を残して越後に帰国した。

「関八州古戦録」は、関東地方で伝えられていた伝承を丹念に集めたもので、軍記物の中では演出が比較的抑えられていると言われています。 時期については多くの誤りが見られるとはいえ、北条家が上野を積極的に守ろうとせず、上杉憲政が簡単に平井城を取り戻せたという点は、事実だった可能性が高そうです。 北条氏康としては、まずは武蔵の統治を固めるべき時期であり、上野の攻略はその後でじっくり進めればいいと判断していたのでしょう。 天文21年(1552年)12月、古河公方・足利晴氏は北条家の圧力を受けて隠居。跡を継いだ足利義氏は北条氏康の甥であると同時に婿でもあり、北条家は関東管領を上回る「古河公方」という権威を手に入れます。 古河公方と関係が深かった東上野の国人たちを手始めに、上野の上杉家被官は次々と北条家に降伏。弘治3年(1557年)または永禄元年(1558年)ごろに、上杉憲政は再び越後へと落ち延びていきます。