- 書状でたどる戦国時代 -

関東管領を利用した越後統一

「書状でたどる長尾景虎(上杉謙信)の越後統一」の19ページ目です。 長尾景虎(後の上杉謙信)を支える宿老・本庄実乃は、トラブルメーカーである平子家を制御し、臣従させるため、上杉憲政を利用することにしました。


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「御屋形様」の命令

「宇駿要害炎上事件」が起きたのは、上杉憲政の関東出陣計画が具体化していく最中のことでした。 出陣予定日を間近に控えた7月3日、上杉憲政が平子房長に送った書状です。

すでに承知の通り、やむを得ない事情により越後にやってきた。

反撃の準備が整ったため、近いうちに上州に出陣する。そなたも長尾弾正少弼とよく話し合って奮闘してくれ。

太刀と鳥目(銭)を贈ってくれてありがとう。返礼として、こちらも太刀を贈る。

上越市史 上杉氏文書集「上杉憲政書状」より意訳

上杉憲政は、5月24日の長尾政景宛ての書状では景虎のことを「平三」と呼び、この7月3日の書状では「弾正少弼」と呼んでいます。 これは長尾景虎が天文21年(1552年)6月28日から「弾正少弼」の官名を名乗り始めたことと一致します。 また、平子房長が6月20日の本庄実乃のアドバイスに従い、上杉憲政に太刀と献上金を贈ったことも分かります。 「上杉憲政の越後への亡命」「長尾景虎の最初の関東出兵(計画)」「宇佐美定満の城での放火事件」という3つの出来事が、どれも天文21年に起きたことを示す重要な史料です。 さらに、景虎が将軍から国主待遇を受け、朝廷から官位を得た段階になってもなお、上田長尾家や平子家は府内長尾家に臣従する立場ではなく、遠征に従軍させるためには「上杉家からの指示」という形をとる必要があったことが分かります。 越後の中堅以上の領主にとっての上杉憲政は、世継ぎを残さずに死去した越後守護・上杉定実に代わる「御屋形様」だったのです。


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本庄実乃の政略

このように、形式上は長尾家の同僚に近い存在だった「上杉家の家臣」たちを、「長尾景虎政権」はどのように従わせようとしたのでしょうか。 それが読み取れるのが、7月4日、本庄実乃が平子房長に送った長文の書状です。上杉憲政の書状の翌日に送られているところもポイントです。

平子さんからの献上品とメッセージは、景虎から御屋形様(上杉憲政)に披露させていただきました。

御屋形様は大変喜ばれていましたよ。平子さんに直接お礼のお手紙を書きたいとのお話でした。

御屋形様の喜びようを見て、景虎もとても嬉しそうにしておりました。

ところで、先日ご報告いただいた宇駿要害放火の件ですが、(上杉家として)犯人を御成敗することが正式に決まりました。景虎が(上杉憲政に)事情を説明し、ご了解を頂いているのでご安心ください。

(上杉憲政の)関東への御出陣については、ご負担をおかけします。しかし決して、平子家だけにご負担を強いているわけではありません。何とか、充分なご準備をお願いできませんでしょうか。

(平子家の所領がある)小千谷に景虎の部隊が到着するまでに、城の修繕など、受け入れ態勢をお願いいたします。

(平子房長の)お母様から、弟の孫八郎殿の就職についてご相談がありました。本来、こういう書状で書くべき内容ではありませんが、お母様がとても気にされているようなので、ついでにお伝えします。

わたしとしては、孫八郎殿は(上杉憲政の)給仕担当の御小姓になられるのがいいのではないかと考えております。景虎も同じ考えです。

平子殿の御同輩、斎藤小三郎殿(斎藤朝信)のご舎弟・平七郎殿や、千坂筑前守殿(千坂景親の父?)のご舎弟・源七郎殿も給仕担当の御小姓になられており、適任ではないかと思います。

本来、当家からこうした助言をすべきではないのかもしれませんが、平子家は代々上杉家に重用されてきた御家柄なので、私どもとしてもお力になるべきだと考えた次第です。

この件については、吉江忠景が取り次ぎます。

ともあれ、今後は何かご意思に沿わないことがあったとしても、どうかご辛抱をお願いいたします。また改めてご連絡いたします。

上越市史 上杉氏文書集「本庄実乃書状」より意訳

この書状の前半で、本庄実乃は長尾景虎を「上杉憲政と平子房長の橋渡しをする仲介者」として演出しています。宇駿要害の放火事件についても、景虎が上杉憲政に説明し、憲政が裁定するという形をとっています。 後半は、平子房長の弟を憲政の小姓にするための斡旋をしていることをアピールしています。そして、他の豪族と同様、平子家が代々上杉家に仕えてきたことを思い起こさせています。 実際には、越後における上杉家の権威は(長尾為景によって)失墜して久しく、それに加えて越後上杉家が断絶したことで、豪族たちは半独立状態にありました。 後年、彼らは「毘沙門天の化身・上杉謙信」というシンボルの下に結集していきますが、この時点での長尾景虎は戦歴も少なく、ブランドイメージが確立していません。 そこで本庄実乃は、越後の武将たちが仕えるべき新しいシンボルとして「関東の御屋形様」を掲げ、その命令は長尾景虎を通して下されるという形をとることで、府内長尾家の軍令に従わせようとしていたのではないでしょうか。


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平子家の従属化

こうした戦略が功を奏したのか、この頃から長尾家と平子家の関係に変化が見られ始めています。 これまでは、景虎は平子房長に求められるままに本領安堵をしたり、平子家に有利な裁定を下していましたが、少しずつ平子家に不利な裁定も下し始めているのです。 8月7日、長尾景虎が平子房長に送った書状です。

以前からの懸案になっている西古志郡内山俣の三十貫文分の所領について、松本河内守が不服申し立てを続けてきたが、早く引き渡すよう、厳しく命じておいた。

ところで、平子家では最近、古志郡支度野岐荘の賀幾と接待屋を領有されたようだが、これは筑後守の本領だ。

ここ数年、景虎は平子家の所領回復に力を尽くしてきただろう?

それに免じて、支度野岐荘については速やかに返還していただきたい。

上越市史 上杉氏文書集「長尾景虎書状」より意訳

支度野岐荘の返還を求めている人物は、「筑後守」だけで通じることから長尾家の大物だと判断できますが、いったい誰でしょうか? 古志郡の支度野岐荘は、栖吉長尾家の本拠地、栖吉城から3キロほどしか離れていません。また、3日後の吉江茂高の書状から係争地が「賀幾の大須賀分」だと分かりますが、この土地は永正年間(1504年~1521年)の文書から、栖吉長尾家の家臣と思われる「大須賀左衛門次郎」に与えられ、栖吉長尾家の管理になっていたことが分かります。 つまり平子房長は、何らかの理由をつけて栖吉長尾家の当主・長尾景信(この時の名乗りは長尾景憲?)の所領を横領していた可能性が高そうです。 栖吉長尾家は、つい3年前まで景虎が養子に入っていた家であり、長尾景信は養父だったと見られる人物。 平子家に関東出陣への協力を求めている時期とはいえ、さすがにこの横領を見逃すわけにはいかなかったのでしょう。 8月10日、景虎側近の一人、吉江茂高からも同じ趣旨の書状が送られています。

ご無沙汰しております。今回の関東への御出陣、多大なご苦労と費用負担がかかっていることと推察いたします。

山俣については、殿が松本にしっかり言っておきましたので、まもなく平子家に返還されるはずです。ご満足いただけることと存じます。

ご念願がかなったわけですから、筑後守殿の本領、賀幾の大須賀分については返還していただけませんでしょうか?

殿からも書状でご説明されていますが、その趣旨を何とか理解いただけると幸いです。いいお返事をお待ちいたします。

今後、何かご用件があれば、わたしに申し付けていただければ力を尽くします。

繰り返しになりますが、この度のご出陣、ご苦労をおかけいたします。

上越市史 上杉氏文書集「吉江茂高」より意訳

この書状の宛先は「平子殿 参御宿所」となっているので、この時点ですでに平子房長は関東へ向けて出陣していたと思われます。 景虎政権は、非常に低姿勢で関東出陣への協力を求めつつ、領地争いの裁定についてはもはや平子家の言いなりにはならないことも示し始めています。 しかし平子房長は、景虎と吉江茂高の説得には応じませんでした。そこで家臣を通じて、吉江茂高の同族で、古志郡や魚沼郡の交渉事の取り次ぎを担当していた吉江忠景に異議を訴えます。 以下は8月13日、その吉江忠景(吉江忠智)から平子房長の家臣へ宛てた返信です。

お手紙を拝読しました。正印(上杉憲政)へのご協力、お疲れさまです。

賀幾の地は、筑後守殿に返還されるようお願いいたします。この土地は筑後守殿のご本領であることが明白であり、議論の余地はありません。

すでに平子家が実効支配しているという事実をもって権利を主張されても、ますます認めるわけにはいきません。

取りなしを求められても、わたしはそれを決める立場にはなく、どうすることもできません。

もし返還を拒まれたとしたら、今後どのような事態に陥っても知りませんよ。

関東出陣に参加されている今のうちに返還し、解決するのが平子家にとって一番です。わたしには、それをアドバイスすることしかできません。

上越市史 上杉氏文書集「吉江忠景書状」より意訳

吉江忠景の書状は、長尾景虎や吉江茂高の遠慮がちな書状よりも手厳しい表現になっています。 7月4日の本庄実乃から平子房長への書状には、房長の弟の就職の便宜について吉江忠景が担当することを伝えつつ、「ご意思に沿わないこと」についてにおわせています。 吉江忠景は、平子家に対して強い態度に出られる立場だったのでしょう。 この「賀幾」の一件は、自己主張の強い越後の国人たちの統率がいかに困難だったかを示すと同時に、景虎政権がさまざまな策を講じて、彼らを少しずつ臣従させていったことを示唆しています。